2011年12月27日火曜日

何となく作った年末の電車風景。MosoとiPhone、簡単だった。



iPhone4Sで撮りました。

ちょっと最近動画、サボり気味。
素材はどんどん撮ってるんだけどね。






このあいだ、夜浅草で、コントラストの強いモノクロの写真をiPhoneを使って撮影していたら、動画も同じようなのをやってみたくなった。





そうだ、アプリで「8ミリ」なんてのがあったけ。

4 x 3の縦横比とフィルムムービーカメラのエフェクト、フィルター。
なかなかいいんです。

XPro

sakura

NOR

60's

70's

1920
なんてね。いろいろある。

ちょっと制作意欲を刺激されるエフェクトがあるんです。
でもそんなに構えないでちょろっと撮ります。
フルハイビジョンではないため軽く扱いやすいムービーデータをさっさと編集。エンコードも時間短くいい流れです。

今回は編集に珍しくiOSデバイスを使わず、Macにデータを引き上げて「MosoHD」を使用。



素材入れこんで、切って貼って、音入れて。タイトル入れたらえらい簡単にできました。

映像って金がかかる。手間がかかる。
そういう印象が未だ市場にはあります。

写真はアマチュアもプロもそれに適した手法と機材があって、健康的なマスであると思います。
映像方面、こういうような方法やアプリ、機材に気がついてアマチュアの幅が広がるとより裾野が広がって、才能が見いだされやすくなり、より消費がまわるのじゃないかな、と思います。

そうなっていくとおもしろい。


2011年12月15日木曜日

オステリアダヒロキ。三鷹のレストランで写真を撮ってきた。


ちょっとおもしろいスタイルのフォトパーティー、なのかな。

そういうのに行ってきました。


仲良くしてもらっている友人のマヤさんが誘ってくれました。
なんでも食事の写真を上手に撮ることのできる人を厳選、だそうで。
ホームページい写真を提供してくれるカメラマンを募って、食事を出して、それを撮影。撮ったそばから食べちゃおう、という集まり。


うむ、上手いか下手くそかは置いといて、7年くらいカレーの皿ばかり、写真、撮ってきてるもんね。
あたしの腕と機材でよろしければ、よろこんで。


さて当日。

ちょいとばたばたしているなかで、何とか都合をつけて滑り込んでみると。
お、オレは仕事しなくてよさそうだな、と思わせてくれた人が何人かいた。
すんごいごっついカメラとごっついレンズの人。
よし、食に集中しよう(笑)




あ、いや、ちゃんと写真は撮りますよ。
うん、撮るってば。
機材だけじゃないところもありますからね、食事の写真。

料理って正面、横、後ろ。ちゃんとあるんです。
たとえ丼物で、シンメトリーだったとしても、あるんです。
そのことは仕事で厨房に立っていたからよくわかる。


調理人のひとが、まな板と皿を自分に向けて皿の上を作り上げて、それを今度はホール担当がお客の胸の前に正しい位置で、見せたい顔の方を向けて置く。これです。お客もそれを受けて眺めます。
そういうのがわかっているかいないかで、たったそれだけでも写真は変わるもの。

そんな経験を生かしつつ、でも、機材的には話にならんのでお任せすべき方にお任せして、ボクはじゃあ、映像の方でも。というわけで、いつも通り。
iPhoneのスライドスイッチを右にスライドさせて、赤いボタンを押して、動画を撮影。


や、きれいな、おいしそうな料理の画ってのは、いいものだねえ。
楽しく撮影ができました。

公然と店内を立って歩いてどこでも撮っちゃうなんていう、はしたないこと、なかなかできないのでとても楽しい。
キッチンの作業だってOKという大盤振る舞い。
レストランでの仕事の流れを撮るっていうのは、すごく楽しいな。ヒロキさんも奥様もカッコ良くて、絵になるし。


料理、美味しいです。とても美味しい。
イタリアンは好きだけど、あまり詳しくないので、あまりいろいろ言えないのだけど。でもとにかく美味しい。

なにより作り手が出されているお料理のストーリーをその場で教えてくれるのがとても楽しい。食事はリビドーではなく、知、の部分での満足、それを含めて満足感を得る。そのことはすごく大事であると思います。

作り手とお客がきちんとコミュニケーションをとって、お互いに納得、満足をして食事が進んでゆく。
このスタイルはこれからますます個人の飲食店にとって大事になってくるんじゃないか、と思います。


この日のフォトセッションはそういった観点で、モデルとできるような催しだったのかな、と感じました。

パーティーの開催 > 顧客に役割分担をする > 参加意識とコミュンケーション > リピーター

というような感じでしょうか。それが押し付けがましくならずに、スマートに進む。
大変貴重な体験でした。





2011年12月10日土曜日

これ、カメラじゃないよ。iPhoneのケース。ギズモンiCAっていう。



とても面白いものが、もうすぐ発売されます。
これなんだけどね。
ほら、これ。

カメラ。


の、形をした、カメラじゃないもの。
iPhoneのケース、なんですよ、これが。





GIZMON iCA っていいます。


ビックリしたな。
本日夜で終了する @KEN3TV細井研作さんとわたしの写真展「旅 - スパイスの香りがする写真展」で彼が持って来たのを見せてもらいました。
プロトタイプらしいです。

写真の写りもあるんだけど、ほぼクラシックカメラそのもの。
見えるでしょう?この感じ。



機能としてシャッターボタンが実動するんですよ。
なんかすごいな。

なんとなくあのボリュームのプラスボタンでシャッターって慣れません。
3GSから数えて4台。
すべて手にして使ってきて、撮影スタイルができてしまっています。


もうそのクセは抜けないんだけどさ、このケースにiPhoneを入れるとシャッターボタンを探してる自分の手に気がついた。

カメラだって認識に知らないうちになってるじゃないか、からだが。こりゃすごいことです。
とにかく見かけは本当にカメラそのもの。

質感だって頑張ってますよ。


ファインダーなんてさ(ファインダーだぜ(笑))ちゃんとガラスが入っていて、ドキドキする。
バカだなあ、と思いながらカメラ(失礼、iPhone(笑))を顔のそばに知らぬ間にもってきている。
ファインダーに接眼している。

それにきちんと機能するシャッターボタンと両吊りのストラップホール。
うーん、ストラップを考えたくなる。選びたくなる。

楽しいなあ。



iPhoneで写真を撮るスタイルが変わるかもしれない可能性を持ってるんじゃないでしょうか。このケース。
カメラを思い出すんだよね、フィルムカメラを使ってた頃の感じ。

「あ、そうか、カメラってこうやって持ってこうやって撮ってたものな。」

そういう風に思いだしたりしました。
構えて撮る。iPhoneじゃあカッコつけだけに思えるかもしれませんが、構えて撮ることって実はとても大事なことで。


被写体を一生懸命見て、集中してっていう写真の撮り方、デジタルコンパクトカメラが普及してからすこし減ってきたスタイルだと思う。

一枚に賭ける想い、なんてのはそういうところから生まれたりするんですが、このギズモンiCAはそれを思い出させてくれる何かを感じてしまいました。いいすぎかな?(笑)

でも、とてもいいものです。


クリスマスプレゼントにこれをかわいいカメラ女子+iPhoneユーザーなんかにプレゼントして、そのサプライズをビデオに撮ってみたいな、なんて考えました。


ちょっといいでしょそういうの。


http://ja-jp.facebook.com/gizmon.ica

http://gizmon.com/ja/gizmon-ica/

2011年12月3日土曜日

ホームセンターに子ヤギがいました。



や、なんだかかわいくって。
で、その場でiPhoneのビデオ回してその場でチャチャッとつなげました。
きょうはiPhoneのiMovieで。

かわいいねえ。
あやうくつれて帰っちゃうところでした。

ヤギを飼いたいな。

2011年12月1日木曜日

カメラ。機械と自分の身体が呼び起こす、過去の記憶と心の震え。


友人たちと立ち寄った中古カメラ店でその記憶は蘇った。


好きか嫌いか、と言われればカメラは、好きだ。
友人たちの熱狂や深い知識に比べるべくもない程度ではあるが、やはりカメラは好きだ。
写真を撮ることも好きなのだが、カメラ自体が好きだ。
小さく、精密な機械というものは心踊らされるものがある。



彼らと町のこぎれいな中古カメラ店に何気なく立ち寄った。

ジャンクのラベルがついた70年代後半のコンパクトカメラ、OLYMPUS XAに心動かされたり、90年代の浮かれた時代の流れの中で出てきたカメラのデザインをぶち壊そうと躍起になっていた頃のカメラが新鮮に見えたり。まだまだ現役のマイクロフォーサース規格のボディの安さに驚愕したり考えこんだり。



そうやって楽しんでいると、突然体が持っていかれるような感覚がやってきて、いったいどうしたのだろう、と自分の体調を訝しく思った。
程なくめまいではないのだ、と気がついたのは、ショーケースの中段の端にひっそりと置かれたカメラから目が離せなくなっていた自分に気がついたから。正確にはそのカメラが目に飛び込んでから、両の手先におかしな感覚、はっきりと体が覚えている不思議な感覚が突然蘇った。


そのカメラは学生の頃、親父が貸してくれていた古いカメラ。
OLYMPUS 35RC
小さな、何の変哲もない35mmフィルムを使うカメラ。

どれくらいの期間使ったかさえ、思い出せない。
そんな、その存在さえ記憶の澱みの底に沈み、泡ひとつ浮き上がってもこなかったような、カメラ。

ショーケースに近づいた時にオレンジ色のフィルムカウンター窓の矢印が目に飛び込んできた。
見えてはいないのに突然その窓の奥のカウンターの数字フォントまでありありと思い出した。


シャッターボタンのレリーズ用ねじ切りを見てシャッターに指をかけた時の、押し込む時の重さを思い出した。
シャッタースピードのダイヤルを操作した時のクリック感、レンズ上のセルフタイマーレバーの重さとゼンマイの音、巻き上げレバーの操作感、シボの手触り、、、

ガラスのショーウインドウの中にあるそれを、あたかも手のひらに置き、操作しているような感覚を覚えたのだ。

圧倒的な体験だった。
生々しい記憶が突然手元にやって来て、めまいさえ感じた。



思い出が、いや、思い出なのかな、これは?
そのカメラを操作した記憶が奔流のように蘇り、うねり、ひととき本当に他のことが考えられなくなった。夢を見ているようであった。
何を撮ったか、どこに持って出かけたか。
そちらは全く思い出せなかった。ただ、カメラとそれを操作する自分だけが鮮烈に思い起こされた。


シリコンでもなく、エレクトロニックでもなく。
操作したダイヤルの奥に潜む歯車が、そのまた奥にある歯車に、順番にカメラ自身に物理的に伝えていく、あの感覚。


たとえばオートバイ。


スロットルを開いた時に、スロットルワイヤーがスロットルグリップに巻き込まれ、引っ張られ。ワイヤーとリンケージをたどってカービュレーターのフロートにつながって。
ガソリンの噴霧量が増えて、エンジンが吼えて。そういう物理的で想像が容易な、機械が動く様。



それは多分、道具を手で覚えた、体が覚えた、その記憶。
手の記憶。機械と分かち合った、感触、という記憶。


いま自分が持ち歩き、使っているガジェットたち。
同じように30年後、こういう体験をさせてくれるのだろうか。

手元に置いて使うもの。
選ぶなら、そういうものをあとでもたらしてくれるようなものを選んでみるといい。