2013年7月21日日曜日

トンカツ、夏祭り、銭湯。如何にして下町でもやもやを脱するか、の術。

如何にもこうにも如何にもならない時がある。うーん、と唸ったまま動けなくなってしまうような、どうにもならぬ時。そういう時、うまい具合に巡ってきてくれるものがある。

うまいもんと銭湯だ。

今日なんかがまさにそうだ。仕事がうまく進まんし仕事自体が少ないし、然りとてやることがないわけではなく。いろいろと小さな事業の立ち上げをひねくってみたり、直近の日銭のなさを嘆いたり。
そうやってろくすっぽ食事もせずにたちまち夕方になって。部屋にいるのもくさくさするし、と出かけてみるがどうにも思わしいカレーに出会えず。さて、困った。本格的に困ったなあ、と当てもなく路地を曲がると。



みつけてしまうのだ。ほんとうに具合のいい、雰囲気ある、まったくもって大人の悩めるオトコが入るに相応しいみせ。トンカツや。いいじゃないか、トンカツとメシ。これだな、と決めてはいる前にふと並びをみれば。またみつけてしまうのだ。いいものを。銭湯だ。並びに銭湯がある。

その上路地の先の方から賑やかな声が聞こえてくる。そうか、祭りをやっているのか。
もう救われたも同然だ。さて、まずは腹ごしらえ。

外からみた佇まいですでにぐっとやられてしまった。行灯のカタカナ表記の屋号もいい。いうことがない、正しいトンカツやだ。暖簾をくぐるとその思いは確信に変わる。よし、もうなんだか古い日本映画の主人公の売れない作家を演じてやるか、と思うほどの程よい昔風。頼んで出てきたトンカツも、いうことがない。すばらしすぎない、これ以上でもこれ以下でもダメ、という絶妙な落とし所のロースカツ。キャベツも美しく、辛子の黄色が目にしみる。
出色は漬物と味噌汁。ちゃんとこういういいものが出てくると嬉しくなってしまう。これもまた飾らない、こだわりすぎない、でも素晴らしいもの。こういうものが殺伐としてしまっていた心と胃袋にじわり、染み込むのだ。


二杯のお茶と温かいおしぼりに感謝をし、うまいトンカツに手を合わせて店を出る。さて、腹ごなしだ。数百m先にぶら下がるたくさんの提灯を目指して歩く。にこにこと祭りから帰ってくるおばあさんや声をあげて走っていく小さな子供。気持ちが緩む。最近は街を歩いてもひどい場所、ひどい空気ばかりで街に出るのがすっかり嫌になっていたのだが、ここに集まっている善男善女は一体どこから湧いて出ただろう。

心和む小さな商店街のお祭りを冷やかしていると少々汗ばんできた。心地いい汗だ。さて、こいつを流しに行こう。

銭湯はあまり色気はなかった。マンションのなかに組み込まれている銭湯だ。しかし、ありがたい。世代替わりや相続で銭湯を廃業する人が多い。それに比べたらどうお礼をすれば、というくらいだ。マンション組み込みは銭湯の生き残りにはなかなかいい選択ではないか。

暖簾をくぐってサンダルを放り込み、木札を抜いて。番台のおじさんに今晩はをして。夢のように気持ちがいい。その上ここは下町、浅草橋界隈、お湯の温度は45度だ。熱いお湯、高い天井、広い湯船。いうことがない。
すっかり気分が良くなって、夜風に当たりながら神田界隈を歩く。とても心地よい。さて、抱えてた案件を片付けてやろう、という気持ちがむくむくと沸き上がってきた。

が、ここはそいつをもう一度引っ込めて、もう少し夜風を楽しむのが正しい選択というやつだろう。

たまには一人きり、なにもしない時間を作らねば。

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