2014年7月21日月曜日

人のサービスを横目で見て我慢できない人。

レストランで特別なサービスを受けることがたまにある。懇意にしているお店の時も、初めて行ったお店の時もある。そういうのはとても嬉しいもので、喜んでその頂き物やサービスを楽しむことにしている。

少し気まずい時があるのも本当のところだ。だって他のテーブルにはそのサービスがいかないのだから。気まずく感じるのはきっと控えめな日本人気質からなのだろう。本来なら堂々としているべきとも思う。なぜか。

例えば私が受けている特別なサービスを羨む人がいる。ずるいと感じたり疎ましく思ったりする人もいるらしい。
少し、おかしい。それと考え足らずだ。

サービスには理由がある。いろいろな理由があるだろう。例えばわたしなら雑誌、ネット、その他メディアなどにお店を紹介差し上げたことがあったり。何度も友人を連れて来たり。お店のお手伝い、物理的なものもそうではないものも含め。

お店のためになにかをしているのだ。

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それがメリットである、とお店の人が判断して、よくしてくれた人にお返しをして差し上げよう、と考えたのだ。
わたし自身がそれ(お店に親切にすること)を意識している時もいない時もある。この際その「わたしの」思考は関係がない。まったくないと言っていい。お店の方が好意を持ってくれている、ということ。たったそれだけだ。たとえばあなたになくてわたしにサービスがあったとしたら、わたしはあなたよりそのお店にとって何かしらを差し上げているのではないか。
逆もそうだ。あなただけになにかしらのサービスがあったとしたらそれは他の人よりもそのお店に何かをして差し上げている。あなたがだ。お店はそう思っている。

それのどこが不公平なのだろう?

「お前だけずるい、不公平だ」はかわいそうだが子供の意見だ。その意見には「なぜなのか?」がない。その事象に対しての思考が停止している。なぜだろう?そう思う力が最終的には人間力を呼び、日々が充実するだろう。例えば、人よりもよくされる、ということかもしれない。

ただもうウマがあう、そういうのもある。人がやっているのだ。あなたも、人だ。

その本に寄稿していないのに献本が来る。レストランにお呼ばれをしてご馳走いただく。(お支払いを希望する時もある。笑顔でご馳走になる時もある)素晴らしいプレゼントをいただくこともある。あなたにだってあるだろう。その時に考えるのだ。なぜこの人はよくしてくれるのだろう。それを考えるのはは容易い。なにせ自分のことだから。
自分に力を付けるなら他人の幸運を見て、あの人はなぜ人に良くされているのか。それを考えるべきだ。
プレゼントを突っ返す、その礼を失した行為も自分の立場でならわかるだろう。なぜ人には当てはめられないのか。

自動販売機に親切にしても何も帰ってこない。その代わり、いつだって、誰にだって、自動販売機は公平だ。それが王様でも子供でも
店を選ぶか、自動販売機で買うか。選ぶのはあなただ。


追記

これを書いていること自体わたしは恥ずかしく思っている。お世話になっている方々にこんな文章を読まれたくない。が、しかし、いいたいことはこうやってちゃんとある。言わなければならないのが、歯痒いのだ。

2014年7月12日土曜日

レストランの食事の金額、の話し。お財布と価値観と。

店に行って食事をして。そのお値段の話し。


高い、安い、という人がいる。意識もしていないし罪なく言っているのだろうとも思う。街を歩いているとそんな声も聞こえて来たりする。他愛のないものだ。
インターネット上でそれを書く人もいる。そうなると少しニュアンスが違ってくる。なぜだろう。

インターネットは匿名が横行しており顔が見えないから、だろうか。街でそういう声が聞こえて来てもそちらを振り向けばそこに言葉を発した顔があり、意図がわかる。ホッとする。ネットではそれがない。ただ言葉だけがあり、そこに残されていた言葉だけがひとり歩きを始める。いくら相手の立場に立とうとしてみても、顔が見えないとそれが出来ない。ただ言葉だけがある。

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値段の話し、基準というのはどこにあるだろう。簡単だ。他愛のない会話のなかに出てきた高い、安いはただ、その人のバッグのなかにある財布の中身。たったそれだけが基準だろう。それでいい。

ただ価値、価格あたりの値(あたい)というのはそういう場所にあるものではない。
この話しはたまたま食事の値段という話しだが、他のあらゆるものについている値段の、その導き出された理由に依る。
食べ物だったら簡単だ。素材と物流と周辺コスト。それに板前さんの技術料だ。腑分けするのは簡単だ。が、そう簡単にいかないのが人の気持ち。振り返ってみればいい。自分の仕事の価値、その対価としての取り分。思いを込めた仕事。単純な金額では計れない。ひとのからだに入ってゆく食べ物を扱う商売の人たちはその思いもひとしおだろう。

単純に自分のお財布の中身だけで高い安いを口にしてしまうのは少しこわいことだ。
安ければ良いのか?300円の価値は人それぞれだ。が、300円で一食が済んでしまう不思議さ、異常さは気に留めておいた方がいいのではないか、と思う。駅前の店でその金額で食べられる食事と同じものを自宅で手をかけて作ってみればよくわかると思う。

なぜだかインターネットには匿名での行動という麻薬のようなチョイスができる。普段、会社や街で気をつけていることが気をつけられなくなる。おかしな中毒性があるのだ。きちんとニュアンスが伝えられない場所で、そんな場所であるにもかかわらずますます暴言を吐く人々。
親しい人との屈託ない会話なら、心通じる前提での軽口も楽しかろう。しかし自分を離れてしまったネットの上での言葉は、不特定多数の人の心には残念ながら伝わらない。

安いのにはわけがあり、高いものに理由がある。すべての事象には理由があるのだ。
それを気に留められるか否かで、なぜだろう、というものの考え方の根幹があれば、日々や人生さえも変わるのではないだろうか。

価格の価値はあなたの財布の厚みで変わるものではない。
そして、どうにも食べログは、苦手なのだ。

2014年7月7日月曜日

エキサイティングマックス!の原稿の話とレストランを守る自分のエゴと。

月刊男性誌、ぶんか社の「エキサイティングマックス!」に連載を持っている。
いつでも大変に苦しんで書いている。なにを苦しんでいるのか。それは。

それは、必ず「自分の好きな店」「大事に思っている店」を取材先に選ぶから。
そして自分の好きな店の店主がどの店でも「任せた」と言ってくれるから。

私の原稿。取材先、お店には入稿する原稿のチェックはしてもらわない。
住所や営業時間等はもちろんきちんと公式のHPやショップカード等で確認、店主にも最新の情報はどれを見ればいいのか等は取材時に確認をする。そしてそれを編集部でもチェックを入れるという二重チェックのスタイルだ。
そういうなか、よく店主に「雑誌が発売されるまで原稿見せねえからな」など軽口をたたくことがある。するとどこの店主も「いいよ、任せたから」と口を揃える。「なに書いたっていいからさ」と。
さあ、ここからが苦労の始まりだ。

写真はイメージです
なにしろ「任された」わけだ。全幅の信頼をわたしの文章、筆においてくれたわけだ。これは、相当に背に重い。当たり前だが真剣度は針が振り切れるくらいだ。そうやって背負うと、文章が長くなる。何もかも書きたくなるのだ。ところがここからまた地獄が待っている。想いの丈をぶつけた原稿。編集部から規定をもらっている約1200ワードから倍を超えることもままある。それを規定量に削っていく。大変に厳しい作業だ。全体のバランスを見つつ、絶対残したいものを残しながらバランスを保つ。ほとんど書き直しという時もある。ともすれば詰め込みたさが勝つあまりぶっきらぼうな文章になってしまったりもあり、反省の日々だ。
一つの原稿仕事にこれだけ熱を入れて書くのは、生活や仕事という話しから考えれば行き過ぎではあるかもなあ、とも思うこともある。が、やめられない。

話す機会があまりなかったのだが、わたしの文章、ブログや紙媒体、Webメディア、問わずに共通していることがある。これらの飲食店に関する文章は、すべてわたし自身のエゴの元に成り立っている。誤解を恐れず言ってしまえば読者のことなど考えていないのだ。まったく、自分のためだけに書いているのかもしれない。長く書き続けてそういう形になった。

それはなになのか、なぜなのか。

わたしはご存知の通り飲食関係の文章に関してはカレーというテーマに特化して活動している。カレーが好きだ。だからそうしている。単純だ。もちろんほかにも好きなものは多くある。イタリアンも、冷やし中華もたこ焼きも、みんな好きだ。
なぜこうも、二日と空けずにブログを書くのか。なぜ月刊誌にカレーで連載まで持たせてもらっているのか。これは、わたしのエゴなのだ。

大好きな飲食店がある。たくさんある。どこも好きで、うまくって、店主はいい人で、思うたびにたまらない。が、しかし。飲食業はなかなかむつかしい。うまいだけじゃだめだし、人柄だけじゃないし、近所にある大企業が移転することだってあるし。そうやって飲食店がなくなる。わたしの大好きな店が、なくなる。それは耐えがたいことだ。あの素晴らしかった代々木のスパゲッティの店「くじゃくの舌」スリランカカレーのブッフェでサンボルだってきちんとあった練馬の「ディヤダハラ」西荻窪の落ち着ける欧風カレーの店「トラトラ」。
なくなってしまったあの店やこの店が浮かんでは消える。

たとえばあのとき、もっと通っていればあの店はなくならなかったのか。もっとがんばって通っていれば。しかし、現実問題、その大好きな店に毎日通って毎日1万円づつ落とすのはまったくもって現実的ではない。そこではたと気がついたのだ。自分だけで応援をやる必要はない。他の人の財布にも協力を求めよう、と。
そうやってブログで、メディアで、好きな店を紹介してゆく。結果、店は潤い、何らかの形で続いてくれる。そういうサイクルが出来れば、と常に思っている。そう、それはエゴなのだ。しかしそのエゴで不幸せになる人もいないはずなのだ。わたしはきちんといい店しか紹介しないし、そのいい店の基準を味だけ、値段だけには決してしない。そこでなにが起こってなにが楽しかったのか。体験を伝えたいのだ。味は当てにならない。人間の舌は、経験は千差万別で100人いたら100通りのおいしい、がある。それを伝えるのは至難の業だ。なので、体験を伝える。どう楽しむか、を伝える。どう感激したかを伝える。そういう風にいつもありたい、そう思っている。

未だ志し半ばだし、わたしの力、影響力なぞたかが知れている。わたしを知っている人はこれを読んで「いや、影響力大きいじゃない」と言ってくれる人も多いだろう。もう一度いう。わたしの影響力なぞたかが知れている。狭い範囲での、わたしなのだ。カレーなのだ。だから、大きな力を持ちそうなチームに参加してみたり、カレー好き、外食好きとは違うジャンルの人たちにリーチをかけようと、もがく。

外食は、楽しいのだ。得るものも多いのだ。それを伝えたい。
ただ外で食事をする、それだけの行為ではないというのを伝えたい。そんなの知ってるよ、という人はいい、これを読まなくても。きっと幸福な外食生活を送っているのだろうから。みっともなくてもなんでもいいから人との繋がり、気持ちのやり取り、そういうものを大きく内包する外食というものを、ちょっとでも後ろから踏ん張って押してやりたいといつでも思っているのだ。

そうやって、毎日カレーを食べている。