2014年9月20日土曜日

賄い飯のないレストラン。

聞いたところによるとチェーンレストランの大手のいくつかは賄い飯がないのだそうだ。誠に現代風で、まあそうだろうな、と思うところある。が、真逆にそれはどうなのだろう、と思うところもある。

飲食の現場は戦争だ。戦いだ。厨房内の作業、調理は重労働で危険も多い。汗も冷や汗もかくことの多い現場だ。ホール業務もお客と接する真剣な現場で神経がすり減るものだ。どちらも同じく大変なのだ。
そういう中、賄い飯という素晴らしいものがあると励みになることは、少し考えれば理解できるだろう。

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ただメシを食らう、という行為とは少しニュアンスが違うのが賄い飯だ。それは研鑽の場でもある。新人の、皿洗いをそろそろ卒業するようなコックの見習いがここまで密かに勉強し、先輩の技を盗み取り、誰に言われるともなくやってきた調理の練習の成果を先輩諸氏に審判を受けるという場所なのだ。
あり合わせでかつ使っても支障のない材料を考え、アイディアを出し、時間を気にしながら作り上げて食べてもらい、そして指導を受ける。大切な修業の場所だ。
これがなければわざわざ研修場所を別で作らねばならず、また、はい研修です、でやる調理では得られない、尊いものが得られるのだ。

なにしろ先輩方の食事である。緊張感が違う。飲食の現場は皆さんが考えるよりも多少荒っぽい場所だ。立ち仕事で、くたくたになるまで働く現場での唯一の楽しみの時間。そのメインたる食事がうまくなければ現場の空気さえこわしてしまうことになりかねぬ。慎重に、真剣に、そして手早く。それが日々続いて研鑽となる。相手があっての自分の料理、という意識も生まれてくる。大変に大事なことだと思う。

飲食に従事するものも、また飲食ではなくとも自らそういう伝統、決まりがある場所を選んで働くことは尊い。
ただ日々マニュアルを見て手を動かすのではなく、自分で考え、動き、それを積んで店でも会社でもない、自分の経験、蓄積としていく、それができる場所を自分でえらぶのだ。そこで得たものは、まぎれもなく自分のものになる。

チェーンだ大手だではムリもあるかもしれない。が、大手だチェーンだ、だからこそ、自分の市場を育てることをせねばいけないのではないだろうか。資源は取り尽くしたらおしまいだ。企業は、社会は文化の上に成り立っている。その文化を自分たちで守り育てないと息の長い商売は出来ないのではないだろうか。商売というスケールではない。食の話しは人としての存亡というところまで考えてもいい話しではないかな、と思うところがある。