2015年7月11日土曜日

カメラをなくした。わかったことがあった。

カメラを紛失した。

イベントの帰り、湯島界隈ににクルマを止めてデリーで夕食とろうと思ったときに気がついた。クルマの中、どこを探しても見つからない。3分ほど考えてするりとあきらめた。あきらめがついた。そしてそんな自分に驚いたのだ。

強く思ったことは「ああ、今日のイベントで撮った動画と写真がオシャカだなあ。写真はWi-FiでiPhoneに7割方飛ばしておいたからいいけれど、動画がもったいなかったなあ。仕事の動画じゃなくてよかった」ということくらい。意外や、カメラ本体に執着していないことが自身でわかった。少し驚いた。

なくしたカメラ、いま手持ちのカメラで一番使用頻度が高く、ほぼ100%外出時に持って行く取り回しのいいコンパクトカメラ、CanonのS120というモデルだ。描写や性能も十分に満足していて仕事で大いに活躍してくれる。実用機だがシャンパンゴールドのボディにちょっと色気を出そうかとベージュのリザード型押しの張り革を施した。それなりに気に入っているのだ。


実は食事を終えてほどなくどこになくしたかを思い出して連絡、事なきを得たのだが、そのときの自分の心の動きで色々わかったことがあった。
カメラ本体には特に愛情を持っていないのではないか、ということ。
本当に重宝で、吐き出される画にも満足しており、小さくじゃまにならずで言うことがない。持っていても「いいカメラだね」と人に言われることも多い。
が。なんとなく、であるのだが本当に実用のための機械であって「これじゃないと困る」というよりこのレベルの画が得られなければ困る、と言う感。使用感とコンパクトさが変わらないのなら同等で他社のものでもいい、とさえ思う。めんどうなUIが変わってしまうことを除けば、だ。

このカメラの前にNikonのP310というカメラを使っていて、こちらはなんとなくモノとしても気に入っていた。こわれて同形の新しいモデルを買ったらどこかなにかしっくり来なくて使わなくなった。後継機でUIも変わらずすんなり受け入れられるかと思ったら、 どうも持った時の質感や重さが違うように感じてしまったのだ。3台も使うとそういう部分はわかってしまう。一部さわった感じが変化していたのはものとして気に入っていたはずの気持ちを削ぐものだった。

とにかくカメラは道具だ。わたしにとってはそういうものだ。忠実にいい仕事をしてくれるパートナーであることを望んでいるのだ。

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