2016年8月11日木曜日

インスタグラムの恐怖。

2010年秋にリリースとなったインスタグラムという写真共有サービスがある。サンフランシスコのソフトウェア会社が作ったもので、もともとはアプリ内で完結させるシステムだったがWebからの閲覧等の要望も強く、ブラウザ閲覧やいいねを押せる仕様に落ち着いた。


インスタグラムはスタートの頃から使っていたが、当時は純粋に写真を楽しみ、共有するユーザーがほとんどを占めていた。それなりに考えて撮った写真をアップロード、初期の頃のユーザーグループなどはデジタルカメラ、iPhone以外で撮った写真は御法度、外部アプリで加工などもNGなどの厳しいローカルルールを持つもところもあった。それはそれでとてもおもしろい時代だった。iPhoneの中だけで完結させることに価値観を見いだしたりするユーザーは多かった印象がある。とにかくみんな写真に真面目だった。(当時はAndroid用のアプリはなく、Androidユーザーがアプリのリリースを首を長くして待ちわびていたのを覚えている。その後、実に2年間のタイムラグを経てAndroid版がリリースとなった)外国人のユーザーにいいねを押してもらってとてもうれしかったのもインスタグラムだ。写真を使う、言葉がいらない写真SNSならではのコミュニケーション。素晴らしい、写真で言葉の壁を越えられるのか。そう思った。


わたしは一度インスタグラムを一度止めている。


前出のiPhone写真のユーザーグループに属したり、インスタグラムの中での、iPhoneグラファーと呼ばれる人々の中でフィルムカメラ時代以来忘れかけていた写真のおもしろさを再認識したり、一生懸命写真を撮ったりして楽しんでいた。雑誌やムックにも自分の写真作品が数多く載って、たいへんに得難い体験をした。今でも大切な思い出だ。そんななかで、ユーザーグループ間で争いごとをする輩がでた。まったくくだらない話しで、反吐が出た。どちらも自分たちが上、自分たちがオフィシャルだといいはり、それをみていてインスタグラムが大嫌いになった。インスタグラムへの写真投稿をきっぱりとやめた。気分が悪かった。

時は経ち、眺めてみればもうインスタグラムに写真を極めるSNSとしての役割は終わったのを悟った。主な使われ方は日常を撮ること。それが大多数のマスを占めている。それで、もう作品性などは考えず、ただカレーの写真だけをアップロードする便利でマスが大きいプラットフォームとして再度使いはじめた。ユーザー数が多いから。拡散力があるから。ただそれだけ。たったそれだけ。あとはまったくなにも期待していない。そこに「芸術」は必要ないのだ。

そんな折、インスタグラムが流行なのだ、という話しを若いおんなのこから聞くようになった。彼女らのインスタグラムの捉え方は古いわたし世代のユーザーとは意を異なったものであった。ソーシャルネットワークそのものなのだ。それも、言葉を持たないソーシャルネットワーク。そして、検索エンジン。彼女らにとってインスタグラムはSNS、コミュニケーションツールでもあり、Googleの代わりでもあるのだ。それも言葉、文字をほとんどを使わない、不思議なSNSであり検索ツールなのだ。

彼女達の使い方はこうだ。ランチタイム、彼女は渋谷にいる。渋谷でおいしいイタリアンのランチを食べたかった彼女はインスタグラムを立ち上げる。そのアプリの中でハッシュタグ検索をするのだ。「#渋谷ランチ」と打ち込む。すると「#渋谷ランチおすすめ」「#渋谷ランチどこ」「#渋谷ランチ人気」「#渋谷ランチ安い」などの候補がどんどん出てくる。その中の好きなワードをクリックするとインスタグラムにアップされた膨大な量のランチの写真がでてくるのだ。彼女らはその中からおいしそうな写真を選ぶ。そこには店名のハッシュタグがあったりおいしい〜などの言葉がハッシュタグとして残されている。ここでやっとGoogle検索、食べログ等の出番だ。だがそれは住所を知るためだけのもの。食べログの評価だなど御託が述べられているそんなものは一瞥さえされない。そしてその住所検索さえブラウザを介さず、GoogleMapなどに直接店名が打ち込まれ、その地図に従って店に向かうのが彼女らの流儀なのだそうだ。彼女らはいう。「Google検索なんか使うと文字列ばかりで無駄。さっさと食べ物の写真が見られればいい。」効率も良く、真っ当な意見かもしれない。

そんな若い世代のこたちと渡り合わなければならないのだ。フードジャーナリスト、など名乗ってしまったからには。いや、そういうこたちにはわたしはすでに相手にされていないだろう。そうではない世代と仲良くやっていくしか方法がないのかもしれない。由々しきことだと思っている。

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