2017年3月28日火曜日

【公開書簡(仮)】そういえば弓月ひろみ嬢からの質問に答えていなかった。/イイヅカ

弓月ひろみ嬢とこの公開書簡をやりとりし始めたのだが、だらしない私はさっさと更新を止めてしまっていた。

せっつかれて書き始めたが、せっつかれるタイミングがよかった。ちょうど仕事のトラブルで色々なものが中断、その中断したものが再開、片付いたところに催促がきた。さっさと書いた1本。が、彼女からの質問に答えるのを忘れていた。

「そんなわけだから、はぴさんにきいとくね。はぴさんは何で、カレーが好きなの?どうしてカレーを好きになっちゃったの?いつも、どんな気持ちで、連載記事を書いてるの?」

ときた。

これはもう何度も聞かれた話で、何度もどこかに書いたりインタビューを受け、話したりしているのだが、決定版がない気もしていた。この公開書簡を決定版として何かあったらここから切り貼りするということで少し詳しく書いてみようか。
何しろ30年以上前のことなので多少わたしの都合に合わせて楽しい感じになっているやも知れぬが、それを念頭に読んでほしい。


わたしは1964年生まれ。戦争から20年ほど経った東京で生まれた。爺さんの代から続く水道屋の息子でちょうどわたしから江戸っ子を名乗ることができるというわけだ。稼業は皆さんもご存知の通り、継いでいない。
小中高と公立の学校でのほほんと過ごし、大学受験をすべって当時はやりの専門学校へ進んだ。コンピューターグラフィクスを学ぶつもりがその学科が定員割れで潰れ、仕方なくCOBOL(これはもう1960年代の言語だ)とFORTRAN(これも同様)を学び、商業コンピュータ、主にオフコンと呼ばれるもの(そんなものはもう現存しない。謎の円盤UFOのオープニングのようなテープがぐるぐる回るそれはそれはかっこよく無様に大きい機械だった)のシステム構築をする仕事をモーターでおなじみの某日の丸系会社の子会社でやっていた。

小中の当時、カレーライスは子供達のアイドル的メニューだった。ハンバーグは憧れ、カレーはもう少し身近なアイドル。学校でも家庭でも変わらずその地位は子供のスター的メニューだ。カレーが出される日は気が狂ったようにおかわりをして顔が土気色になるまでカレーライスを堪能したものだ。
そんな人並みにカレーが好きだったわたしが無我から自意識としてカレーを欲するようになったのは確か1980年代始めだった。

高校を卒業して、高校の在学中にどうにも好きで片思いをしていた女の子がいた。なかなかおしゃべりをするチャンスもないままでいたが一念発起、彼女をデートに誘ってみようと思い立った。当時の高校生、お金も大して持っていない。レストランに誘うならと色々算段するのだが、どうにも予算が立ち行かない。
現代はいい時代だ。フレンチにもイタリアンにもカジュアルラインがある。ビストロやカジュアルレストランに女の子を誘うなんて現代の都市部の高校生は普通にやっているだろう。しかし当時、そういうカジュアルな店は皆無。そういうレストランのチョイスをすれば数万円の食事代にプラスしてジャケットとタイ、革靴を揃えねばならなかった。これはもうアルバイトもろくすっぽやっていない高校生にはおいそれと手を出せる場所ではないのだ。高校当時、ぴあやアングル、シティロードといった情報誌を片手に映画や舞台などを見にいっていたわたしははたと気がついた。その情報誌にたまに載っているインドカレー。インド料理のレストランは確か多少は安いはずだ。その線で行ってみるか。インドレストランならネクタイをしないでも大丈夫だろう。だってカレー屋さんなんだから。その上金を持ってる友達がイタリアンなぞに女の子を連れていく中、こちとらちょいと珍しくてみんなが行ったこともないインド料理だ。差がつけられるぞ。甚だ浅はかな高校生のわたしはそう考えた。

雑誌アングルを精査し(わたしはアングル派だった。ぴあは映画情報がメインだったしシティロードは何か肌に合わなかったのだ)これという店に目星をつけた。何しろ初めてのインドレストランだ。オートバイで下見にまで行ってきた。(お金がないので店を見に行っただけであった)そして当日。営団地下鉄の東西線で彼女と並んで座り九段下の駅へ向かった。緊張でガチガチのわたしだったが彼女は涼しげな顔をしていた。彼女の思い出はここまでだ。ここ以降、店での彼女との思い出は一切ない。今となっては何を頼んだかも忘れてしまったが、とにかくすごい衝撃を受けたのだ。

店構えもちょっと独特の雰囲気があるレストランだった。子供のわたしからすれば十分高級店であり、目的は達成されたが気後れも感じていた。大人の場所だ。そう思ったのだ。ホールは想像したよりも薄暗く、女性のウェイトレスが忙しく歩き回って活気があった。強いインドカレーの香りがホールいっぱいに広がっていてそのことに圧倒された。うまそうな匂いだった。不思議と初めてのインドのカレーの香りに違和感もなく魅了されたのだ。気もそぞろなままに注文。写真もなく英語の表記もある大人っぽいメニューにまた気圧されて、それでもやっとの事で注文をした。そしてやってきたカレーとライス。これが衝撃的だった。

もう一度書くが、もう今となっては何を頼んだかも覚えていない。当時の浅はかな高校生の頭ではチキンカレーのスタンダードなやつくらいしかチョイスできなかったと思われる。そしてカレーを食べて驚いた。どう驚いたかももはや定かではない。ただ、知らない世界が開けたのだけは確かだった。聞いたことも口にしたこともないカレーライス。カレーライスでさえないのではないかと訝りながらもその魅力的な食べ物のことで頭はいっぱいになり、彼女のことは頭から消えた。わたしは付き合う前に彼女を振ってインドカレーに恋をした。

その後そのレストランが「アジャンタ」という名前であることも知らずに何度か通った。ある日、カレーに恋をしているはずなのに懲りずに色気を出して後輩の女の子をオートバイに乗せてその店にやってきた。店はなくなっていた。文字どうりなくなっいたのだ。あの上品な白い壁は崩され、柱の残骸などが山になっていた。その向こう側に靖国の大鳥居が見えていたのを覚えている。大いに絶望したものだ。

そんな体験と並行してインドカレーに興味を持ったわたしは他の店にもいかねばいけない、という使命感を帯び食べあるきを始めた。1985~6年ぐらいのことだろうか。東京のインドカレーのもう一つの大ボス、ナイルレストラン。そこにも小遣いを貯めては通っていた。寒い冬の日、東銀座駅から小走りでナイルレストランに向かった。確か紫色だっただろうか、色がついたガラス扉は寒さで曇っていて、その扉を開けて入ると髭のインド人が席に案内してくれた。大きくインデラカレー粉の宣伝が書いてあるテーブルにつくと、真っ先にムルギーランチを進められるのは今と変わらない。それを嬉々として受け入れ、ムルギーランチばかりを食べていた。ある日端の席に座っているとインド人のおじいさんが自分のテーブルの席に座ってきた。なんだか怖いなあ、なんだろう、と思うと食べ方の指摘を受けた。勝手に食わせろよお、やだなあもう、、、と若いわたしは思っていた。そんな出来事があったことをナイル善己氏に聞いてみると、多分自分の祖父だろう、と言っていた。彼の口からそれを聞いて、あの時わたしは歴史を食べたのだな、と感慨深く思った。

他には御徒町、湯島にあるデリー上野店。小さな、カウンターだけの店なのだがいつでも混んでいて活気があった。カレースタンドだと思って入ったが、食べたことのないエキゾチックな味と香りのカレーを出されて驚いた。お客たちはメニューも見ずに次々と注文をしてゆきどんどん食べてはさっと席を立ってゆく。そういうのがかっこいいな、と思ったものだ。はじめは周りの客がこぞって頼むカシミールカレーというのを頼んだが、辛すぎてむせ返るような思いをした。大人になってからはその良さがわかるようになり、時たま頼むようになったが子供の時分には刺激が強すぎた。次にコルマカレーというカレーを食べたのだがこれが大当たり。自分の舌の好みによくあった。以来コルマカレーを求めて通うようになった。

他にも上野アメ横のガード下にある狭い階段を登ってゆく「アーグラ」、新宿のスリランカレストラン「コートロッジ」で知ったココナッツミルクが入ったカレー、新宿アルタ裏の沖縄そばの店の2階にあった「印度屋」なんてとこはインドカレーの食べ放題の走りみたいなお店で嬉しかったな。新宿はもちろん「中村屋」、それと「モンスナック」。渋谷だったら「ラージパレス」。他にも本当にたくさんのお店を回ったものだ。

システムエンジアを初めて4年ほど。どうにもやっていることとやりたかったことのギャップが埋まらずに悶々としていた。決心をして辞表を書いて。雑貨業界に転身をした。その仕事は出張も多く、全国のカレーを食べて歩いた。東京にいるときは相変わらずの有名店めぐりに加えてその幅も広がっていった。タイ料理も好きになり、下高井戸にあったピキヌーにオートバイで日参しては辛い辛いと言いながらカントリーカレーを食べ、店主が漬けたフレッシュなプリックナンプラーを買って帰った。

そうやって家カレー、給食カレーから初めてのインド料理としてのカレーを経てアジア各国料理の中の煮込み料理としてのカレーが好きになり、2回転ほどして日本の古いカレーライスの良さに目覚め、日本人コックが作るインド風カレーが一番うまいのではないか、など考えたりとグルグルとしているうちに知識と体重も増え、現在のわたしとなったのである。

「どんな気持ちで、連載記事を書いてるの?」

は、また今度。

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